紅蓮舎

天台寺門宗新発心、鸑鳴です。

牛と蛇

牛の話しの続きです。蛇との対立について。

牛の神は降雨、豊穣の神とされていましたが・・雨と牛は農耕に欠かせないものです。農耕は、時には氾濫する河川の龍神と対立するものでもあった。牛と蛇の対立はそういうことだったのかとは思います。ただ、これにはもう一段掘り下げた意味があるような気がする。


この意味については、スサノオヤマタノオロチを、マルドゥクがティアマトをバラバラにした伝承が伝わっていますが、この伝承こそがその意味を表しているのか、とも思われます。共通するのは天神や嵐神が、天から降りたち、巨大な蛇神を、剣で切断した・・ということです。


蛇神が何なのかと言えば〈蛇は長い〉ので、終わりも始まりも見えないほどの『時の流れ』だと思われます。原初のリアリティと言ってもよい。思うに雨、粒子、点というものは長い線を『剣』で切り取った断面とも考えられる。つまりは、『長い蛇』を、切断し、断面、粒子化する動きがある・・。切断、時間にとって切断とは何か?私が考えるに、この時間の連続体に断面をつくるとは、つまりは暦法のことだと思うのです。


切断された粒子化された時の流れは、日であり時、分、秒です。牛を農耕神とすると、ほどよい太陽と雨が重要となり、治水し、村を作り、また暦を設定し、収穫までの1年を設定し、暦で計算します。この暦を使った計算が天空神の剣に相当すると、考えています。なので、牛神は当然、太陽神としての性質も併せ持つようになります。また、農耕の成功は都市の建築、さらに言葉と暦という文化の発展に繋がりました。


さて、牛は反芻する動物です・・これは『記憶』と深い関わりがあるように思えます。我々、人間の記憶は、何回も反芻することによって定着するからです。農耕は収穫物を蔵に収蔵しますが、人間もまた言葉に断片的な映像記憶を付託して記憶庫に収蔵します。

『人は反芻して、記憶することを覚えた!』ということです、牡牛座が『頭』しかありませんし、それ故に、『牛頭の神』として世界各地で崇拝されているのかもしれません。さらに、人間の記憶プロセスも進化しました、つまりは文明です、竹簡、パピルス、紙、PCと外部記憶デバイスも進化しました。


連綿たる時間連続体を切断し、粒子的な『記憶』『言葉』にして脳に収蔵してきたのです。剣により切断し、分断された記憶を我々は脳裏で再び、組み立てます。そういう意味で、人間の頭の中は最初からキュビズムであるし、ピカソの絵画の如きものなのです。いわばその切断した記憶を元に組み立てられた『思考』によって人々は『文明』を築き上げていきました。これは頭の中の『都市』でもあります。これは、本来の『リアリティ』を切断し、頭の中の『王』の命令により都市が組み立てたものなので、本来の『地球の時間の流れ』とは違う歪んだ認識になります(人間特有のゲシュタルト)。


しかし、中国では何故か、龍神である黄帝が、雨神である蚩尤に勝ってしまっていますので、次回はその謎に迫ってみたいと思います。